Biography

1989年1月22日生まれ。B型。

本名、清水陽介。ニックネームはシミ。

 

幼少期を東京都練馬区で過ごし、

4歳で神奈川県に引っ越す。

小さい時から絵を描くことや工作に興味を持っていた。

幼稚園の時はマジックで迷路ばっか描いてたのも覚えている。

この頃の夢は「ロボットを作る人」。

多分、テレビで見たロボットコンテストがカッコよかったんじゃない?

 

 

そのまま地元の真福寺小学校に入学。

この頃、初めて漫画を描いた。

「星のカービィ」を題材にした4コマ漫画だった。

初めて買った漫画は「スーパーマリオくん」。それとゲームを題材にした4コマギャグバトルとかそんなん。

神奈川県の学校と言っても1学年、2クラスしかない小さな学校だった。

小学生にしてクラス内のハイラルキーを常に意識していた。

自分のいるクラスには圧倒的な力を持った俗にいう「ガキ大将」がいて、自分の立ち位置を嫌でも思い知らされた。

自分では真ん中くらいの位置づけだった。そう思ってる。

小学校、中学校の生活で、教師が気をきかせたのか、そのガキ大将とクラスが離れる事はなく、9年以上も同じクラスにさせられた。(やれやれ)

自分の中のダークな部分が形成に大分影響したと思う。

 

 

13歳。川崎市立白山に入学。

別にこの頃は「漫画家」なんてこれっぽっちも考えてなかった。

周りには絵の上手いヤツなんてたくさんいたし、何より『漫画家なんかで喰っていけねーよ』と、中学生ながらに冷静に現実を見ていた。

それでも絵を描くのは好きだった。

中学時代は卓球部。スキンヘッドが特徴的な顧問にしごかれ、市大会ではそこそこの成績だった。

白山中学校は過疎化のため、おとなりの王禅寺中学校に統合され、母校の姿はそこにない。

義務教育下の自分はバカにされることを随分嫌った気がする。

頭はよくないけど、詰め込み式の勉強で良くも悪くもない成績だった。

 

 

15歳。神奈川県立生田高校に入学。

志望理由は自分の学力を過信していたのと

好きな人がそこを志望していたからだ。

(その娘は推薦で決めたが、僕は一般入試でギリギリ受かった)

 

ようやくガキ大将との腐れ縁を断ち切った僕は

高校生活を満喫しようと思ったが、体の芯にこびりついたひねくれ根性だけはどーにもならなかった。

なんだか人の輪に加わるのが苦手だった。

 

 

ハンドボール部入部。生まれて初めてハンドボールを経験。

下手くそだったけど、声だけはでかかった。

応援の際、同じ学年のヤツが「お前の声は気に障る」と言ったのが衝撃だった(笑)。ハイトーンボイスでキーキーしているのは今でもかわりません。

部員の数が少なかったので一応レギュラーになれた。

部活は自分の高校生活の大部分を占めていたと思う。

経験者も周りにいて、未経験者の自分はけっこう大変だったが、それなりに楽しかった。部活の他にも軽音のまねごとをして文化祭で歌ったりもした。

なお、部活引退後、

大好きな子に告白するもあっさり撃沈。

「シミちゃんは恋愛対象に含まれないんだよね…」

現実はそんなにあまくないってことですね。はは。

 

さあ受験勉強だということで、

頭もあまり良くないので私立を志望。

早稲田に現役で受かった先輩に

「文系数学は穴だぞ!」

とそそのかされ、選択科目を数学に。

受験の差し迫った12月。塾の自習室で気づいた事は

「おれ、数学嫌いじゃん」

ということだった。

時既に遅し。

 

 

見栄もあったせいか、受験校もMARCHと呼ばれる大学以下は受験しなかった。受験結果は全敗。浪人時代に突入する。

 

 

浪人した頭の良くない先輩が東北大学を合格。

彼の通っていた町田の代々木ゼミナールに入学。

まあ、浪人するんだから早稲田っしょ!ということで、

選択科目も世界史に変更し、友達なんか一人も作らずに、黙々と自習室を使って勉強していた。

ただ、勉強の仕方が分からなかった。

従来の詰め込み式が上手くいくはずなく、

早慶上智を受験するも、こらまた全敗。

かろうじて引っかかったのは青山学院大学の経営学部。

奇しくも、現役時代の第一志望だった。

 

 

19歳。ようやく大学に入学。

入学式前の学部旅行は熱海で行われたレクリエーション。「何でもバスケット」でどこのどいつが言ったかは分からないが

「浪人したひと!」

に馬鹿正直に反応してしまったことが非常に悔やまれた。

 

そのせいもあってか、非社交性にますます磨きがかかった。

友達も先輩もいない状況で頼れるのは己のみ。

浪人の負い目から、1・2年はフル単(単位を一コも落とさないこと)で乗り切った。

バイトは地元のうどん屋「杵屋」。2年間そこで働いた。

 

この頃、

「自分は一体何がしたいんだ?」

ということに常に悩んでいた。

一歩も前に進んでいる実感のない焦り。ただただ過ぎていく時間。

 

とりあえず自分探しの旅に出た。

青春18切符を使って10日間の一人旅。

たどり着いた鹿児島でようやく自分というものが再認識できた。

 

 

 

そんなやりたいこともわからずに悶々としていた大学2年の秋。

中学時代の同級生、まおに再会する。

彼の熱心な誘いで環境対策NGO「A SEED JAPAN」のセクション、

「ごみゼロナビゲーション」

の学生スタッフをやることに。

 

この選択が自分の人生を変えた。

 

 

一年間、日本各地のフェスで環境対策の活動を行って、生まれて初めてFUJI ROCK FESにもボランティアという形で参加した。

別に環境系の仕事に就くつもりは全くなかったが、体験する事全てが新鮮だった。

 

初めての海外旅行。まおと一緒に二人旅でインドに行った。

「旅」の持つ素晴らしさに気づいた。

 

一年間学生スタッフをやって

ここでようやく自分のやりたいものが見つかる。

漫画家だ。

 

スタッフ用のマニュアルに挿絵を描いてた。

それに対する周りのレスポンスが単純に嬉しかった。

『やっぱりおれは漫画家なんだな』

と妙に納得して、ごみゼロナビゲーションをひとまず卒業し漫画家を目指すことに。この時大学3年。

就職活動をする気は一切なかった。

 

 

 

大学4年。

なんとか45ページの読み切り「Surf on the Radio!!!」を完成させ集英社に持ち込みをかけるも、

歳も違わないような若手編集者に一蹴される。

後で分かった事だが、使った原稿用紙は同人誌用のA4サイズだった…

 

 

卒業後の予定も定まらないままネームを描いては、まおに見せに行く毎日。本も沢山読んだし、映画も沢山観た。

 

ある日、奨学金の残高を見ると30万円残っていた。

ここでふと一つの考えが頭に浮かぶ。

 

『もしかして世界一周できるんじゃないか?』

 

旅漫画を描きたいと思っていた。

漫画家としてのキャリアを積む方が先なんじゃないか。そう思っていた。

しかし、自分の旅の経験はインドのみというコンプレックスも同時に抱えていた。これで説得力のあるものが描けるのか?そんなジレンマも頭のすみにあった。

 

奨学金の残りと世界一周が頭に浮かんでからは決断が早かった。

迷わずフリーターとなり、世界一周の資金集めのため、地元の串焼き屋さんでバイトに励んだ。23歳。

 

その合間にコツコツ短編を描きため、ハナクソ漫画のレベルも徐々にあがってきた。愛用のPenny Boardに出会ったのもこの年だ。色んな人の旅ブログも読んだし、様々なイベントにも参加した。一人でバーにも行くようになった。この一年間が一番充実していたと思う。

 

そして僕は旅に出る。

 

 

 

とりたてて才能もない、自分の24年間の人生をつらつらと書き記してきたわけだけど、

「おれの人生ってぱっとしねえなぁ」

というのが素直な感想です。

 

 

そんなシミが「旅する漫画家」を目指して世界一周に旅立ちます。

社会的に見たらどうしようもないヤツなことは自分でもわかってます。

 

けど、やらなきゃ何も始まりません。

どこまでできるかわかりませんが、とりあえず自分の夢に向かって進んで行きたいと思います。

どうぞ応援よろしくお願いします。

 

2013,5/10 清水陽介