ちょっとした機会があって鎌倉でしらす丼を食べる機会があった。
しらす丼。
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それまで僕がしらすに抱いていたイメージというのは「炊いた白米の上にふりかけ代わりにしてかけるもの」くらいのものでしかなかった。
母親の作ってくれるお弁当にときどき紛れていたのを思い出す。もしくは夕飯の時にさりげなく小鉢に盛られて出てくる程度だ。
「しらす」という食材はメインディシュになるには程遠い。あくまでも脇役。それもうんと目立たない感じの。小学校の学芸会だったら「草木(A)」という役名でも与えられてそうな感じの。あまり頻繁に食べるものでもなく、街頭でポケットティッシュを配っている人からあなたが何の気なしにそれを受け取ってしまうような、そんなふうに気が向いた時に食卓に顔を出す程度の存在だ。
世の中のしらすファンの人を敵にまわしてしまっただろうか?そうだとしたら謝ります。悪意はないんです。しらすという食材が僕にとってそれだけ縁が薄かったということを言いたかっただけなんです。
しらす丼という単語を目にして(耳にして)『え?あれって単なるふりかけの代用品に過ぎなかったんじゃないの?』と、しらすに対する価値観が大きく揺さぶられたのである。
僕がしらすのことを気にしだしたきっかけは一本のアニメにある。
「つり球」
というアニメが2012年から放映されていた。
制作会社は「ノイタミナ」という会社だ。今はわからないけど、当時は良質なアニメを作っていた。印象的なのは「四畳半神話体系」というアニメだろう。森見登美彦原作の小説をキャラクターデザインに中村佑介(あのアジカンのジャケをよく描いているイラストレーターさんだ)を起用して見事に再現していた。
断っておくけど、いや、別に断る必要もないんだけど、僕はほとんどアニメをみない。時々、興味があってトレーラーとかをYouTubeで観たり見なかったりするくらいだ。
というか、上に書いたた「つり球」だって実はちゃんと観ていないのだ。ごめんなさいノイタミナさん。
だが、まさか「つり球」という小説があることを僕は知らなかった。
たまたまBOOK OFFで僕はその小説を見つけたのだ。その本はけっこうな厚さの本で、何かのドラマか映画の脚本のように思えた。
裏表紙には「アニメ本編を脚本家みずから小説化」と書かれていた。まさにその通りだ。
話自体はアニメのテイストを残しながら、心理描写がアニメで表現できなかった分、(それなりに)細かく書かれているのだが、シーン展開が作者独自の流れで進むので、それに慣れないとシーンがいつ変わったのかがよくわからない。設定もアニメを盛り上げるために装飾されすぎていて、キャラクターの余分な設定が目立った。
一言でこの本の感想をいうなら「フツーー..」だ。
「あ、こんな内容だったのね。ふ〜ん」って感じ。
別に「つり球」のことを書いてもいいんだけど、今日はしらすだ。
そう。この本に「しらす」が出てくるのだ。ほんのちょっと。
物語の舞台は江ノ島で、そこに
「江ノ島はしらすを売りにしている。中でもしらす丼はどこの店でも食べることができる」
というようなことが書かれていた。
江ノ島近辺の海岸線上に住む人間はもれなくしらすが好きである。というような書き方で書かれていた。
そして僕は昨日ついに「しらす丼」と対面することになった。
その時僕たちは国道134号線を車で走っていた。
僕は後部座席に座ってまどろんでいた。
前の座席から気持ちのいい風が入ってくる。時刻はちょうど夕日が沈んだばかりの頃で稲村ヶ崎の方角から黄色くて巨大な月が顔を出し始めていた。こんなに大きく見える月を見たのは初めてだった。漫画にでも出てくるようなオーバーに表現された月そのものだった。
僕たちは夕飯に何を食べるか決めかねていてた。
いくつか候補があったのだが、みなの意見がまとまらないまま、車はずるずると国道134号線を片瀬江ノ島方面に向かっていった。
時刻はちょうど帰宅ラッシュの時間帯で車は列になってゆっくりとしか進まない。何を食べるか考える時間はたっぷりある。
そんな車の中でゆられていると自然にまぶたが落ちてきた。
眠りに落ちる寸前で車はどこかのレストランの駐車場に停まった。
車内から外の景色を眺めていると、あたりには同じように「しらす」と書いた看板をいくつも見つけることができた。
こういうご当地グルメを強調した看板を見ると僕は東南アジアだか南米だかの観光地を思い出さずにはいられない。その固有名詞だけ掲げておけば観光客たちがやってくるとでも思っているかのような。頭の中でインド人のおっちゃんが「チャーイ!チャイチャーイ!」と言っている。あぁ、インドに行って本場の濃くて甘ったるくて、それでいてシナモンやカルダモンなんかのスパイスが効いている地元のチャイを飲みたい。うん。いますぐ飲みたい。
僕たちが入ることになったレストランは腰越漁港のすぐ目の前にある小さな店で、名前を
「しらすや」
と行った。
どうしてこう安直なネーミングになってしまうのか、僕にはさっぱりわからない。他の店と区別することも難しいじゃないか。
(今インターネットで検索をかけると一発でその店が出てきた。ちょっと感心した)
店内にはテーブル席が8台ほどと、カウンター席が置いてあった。
内装もなかなか綺麗だ。ふつうローカルな食堂といえば年季の入っている綺麗と言い難い店がほとんどなのに、その店は一目ではしらすを売りにしているようには思えなかった。3秒くらいで思いついた店の名前がどうしても残念に思えてしまう。
僕たちは店のテーブルのひとつに案内された。テーブルに置かれたメニューの他にも黒いボードにそれ以外のものが書かれている。しらす丼はもちろんのこと、他にもいくつか魚介類を使った料理があった。ボードに書かれた文字はちょっと見にくく、視力検査のように凝視しなければ文字を判別できない。
僕が注文したのは生しらすと釜揚げしらすを使った「二色丼」というものだ。
僕たちは注文したそれぞれの料理が出てくるまで、別に注文したたこの揚げ物やシーフードサラダをつつきながら、店が独自に造ったらしい冷酒をちびちびと飲んだ。
たこは揚げすぎておらず、ころもの中はトロっとしていた。味付けもしっかりしていたので酒のつまみにはよく合っていた。シーフードサラダもボリュームがあり、4人で分け合うにはちょうどいいくらいだった。
そして頃合いを見計らって僕たちのメインディッシュがテーブルに運ばれてきた。
「二色丼」と呼ばれるその料理には、言うまでもなく一面にしらすが敷き詰められていた。
透明な方が生しらすで半透明の白いしらすがどうやら「釜揚げしらす」のようだ。ということは僕たちが日常的に「しらす」と呼んでいたのは「釜揚げしらす」だったということに僕は気がついた。まぁそりゃ、生じゃないもんな。
しらすの上にはきざみのりと薬味ねぎと生姜が乗っていた。
それに大根・胡瓜・人参の三枚のお新香と味噌汁が出てきた。もちろん味噌汁の中にはしらすが顔をのぞかせている。
こういう料理を見た時に僕は『一体どこに野菜があるのだろう』とついつい考えてしまう。お新香を「野菜」と呼ぶにはあまりにも量が少ない。
きっと丼ものひとつ注文して満足するような人間はいない。野菜の食べたい者はサラダを注文すればいいのだろう。
ただ、僕は大学生の頃からそれほど多くお金を持っていたわけではないので、丼ものひとつで注文を済ませてしまうことが多い。
一体どこに野菜があるんだろう?これを注文する人間は野菜のことなんて考えないのだろうか?そもそも野菜が生きていく上で必要無いと考えているのだろうか?そう僕は頭を悩ませる。菜食主義者じゃ間違いなくこういう場所で食事をとることはできないだろう。
「しらす丼にはお好みで醤油をかけてお召し上がりください」と店員の女性が言った。
僕はテーブルの横に置いてあった醤油の入った小瓶をとると、慎重にしらす丼に垂らした。
割り箸も同じように慎重に割って、生しらすをひとくち分すくって口に運ぶ。どんな味がするのかはまだわからない。
(もぐもぐ)
咀嚼。
「……………..」
そして僕は理解する。
「水分をたっぷりふくんだとろとろとした食感。だが、
後味は苦い..」
それが生しらすを食べた僕の感想だった。
なぜ地元の人間がこぞって「しらす」の文字を掲げるのか僕には全然わからなかった。しらすよりも今テーブルの上にあるたこの揚げ物やシーフードサラダの魚介類の方が美味しいような気さえした。
“Lock Stock and Two Smoking Barrels”でジェイソン・ステイサムが盗品の時計を叩き売りしているあの場面を僕は思い出した。
必要以上に獲れてしまったカタクチイワシの稚魚をご当地グルメという名で消化するのは当然のことじゃないか。それで産業が成り立ち、地元が潤っているのだから。
いや、考えてみろよ。しらすが美味しいなんてどこにも書いていないぜ?誰も嘘はついてない。僕が勝手に『江ノ島で食べるしらすは美味しいに違いない』と思い込んだだけじゃないか。もしくは僕の味覚が苦味を「旨味」に感じられないだけだろう?
しらす丼そのものは「フツーー..」だった。
一緒にテーブルを囲んでいたうち二人は生しらすには一切箸をつけなかった。隣の席では生しらすの姿すら見えない。美味しそうなかきあげ丼が威勢良くどんぶりからはみ出ていた。
「しらす丼美味しかった?」と尋ねられれば僕は2秒迷ってそれから「うん。まぁ、美味しかったよ?」と答えるだろう。
そしてもし仮に僕が再びここを訪れるようなことがあったのなら、
その時は間違いなく
「かきあげ丼」を注文することだろう。
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