僕はスーツが怖い



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都心

に近づくにつれてスーツを着た大人たちの姿を多く見かけるようになった。

シワひとつない濃紺のスーツからは、それらが高価なものであることが読み取れる。

ある意味スーツの質がその人間のステータスを示しているような気さえする。

 

 

(とりあえず思う存分書いてみて、あとで形を整えればいい)

 

 

スーツからは表層的な情報しか読み取れない。

彼ら(彼女たち)は一様に「サラリーマン」として僕の目には認識された。

 

 

「どれだけの人間が嬉々としてスーツを着て、会社に向かっているのだろう?」

 

 

僕の目に映るサラリーマンというジャンルにカテゴライズされた人間はみな一様に無表情で、このままいくと表情筋が衰えて、いかに感情を表に出さないかを競う社会が出来上がってしまうんじゃなかって思うほどに、つまらなそうな顔をしていた。

 

 

そんな彼らを見ていると僕はついつい想像力をは働かせてしまう。

一体彼らはいつからスーツを着ているのだろう?

生きるために仕方なく就職活動をし、着たくもないスーツに身を包み、通勤電車に揺られて惰性で生きているような気がしてならなかった。

それは僕の偏見だということはわかっているのだが、こんな妄想は社会の一員であるという責任感と共にスーツを着て会社に向かう彼らに対して失礼だとは分かっているのだが、そう思ってしまったのだ。

漫画家の妄想だ。どうか許してほしい。

 

 

断っておくけど、僕は彼らのようにしたたかに生きることなんてできない。

ステレオタイプな「サラリーマン的な生き方」をしていたら、速攻でメンタルをやられてしまうことだろう。集団行動というやつが死ぬほど苦手なのだ。

自分が代替可能な労働力と働いた時間が比例するような「生産性」をよしとする社会で生きていったのであれば僕は今頃、精神を病み、家から一歩も出られない人生を歩んでいたことだろう。それほどまでに僕のメンタルは豆腐のようにもろいのだ。

 

 

 

 

半蔵門線の電車に揺られて、僕は改めて周囲の人間を観察した。

そこからはやはりおおまかな情報しか読み取ることができなかった。

なぜ皆一様に同じ服を着ているのだろう?それが疑問でしょうがない。

これは一種の個性を薄めるための擬態スーツかなにかなのか?

一体周りにいる奴らがどういう仕事をして金を稼いでいるのだ?

 

ただ、僕に分かることは、彼らは何かの企業に属し、そこで何かしらの仕事をして金を稼いでいるということだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、僕は電車に揺られながら考えた。

『どうしてこのようなことを考えてしまうのだろう?』

と。

 

それは多かれ少なかれ、僕は周囲の目を気にしているからだ。

バックパックだけにとどまらず、サブバッグと大きなトートバッグを持ち込み、お団子でジーパンにTシャツ姿。明らかに浮いている。そして周りにはスーツを着た人間しかない。

 

 

僕は就職活動をしなかった。

だからこそスーツを着た人間にはほんのわずかな「恐れ」のようなものがあるのだ。

さっきからスーツがどうだの滔々と語っているのはそのためだ。

 

スーツの不透明性や個性に乏しい同一性を前にすると、僕はその「名なき大勢」みたいな存在に組み込まれたくないと思ってしまう。

 

 

だが、視点を変えてものを見てみることにする。

そうだ。これは同じように見えて、中身は違うってやつだ。

意識して周囲を見渡すと、実に様々なものが目に入る。彼らが着ている仕立てのいいスーツも、電車の中吊り広告も、つり革や、イヤホン、それらは都会で自然発生しているものではない。それを作る人間がかならずそこかに存在する。今乗っている電車を整備する人間だっているわけだし、バッグを作る職人だって、もしかしたらここに混ざっているかもしれない。

 

そう。僕は自分の目から読み取った情報からでしか物事をとらえていないのだ。

 

僕はバックパッカー(ホームレス)というわかりやすすぎる服装をしているだけだが、実際スーツでそれらの情報が薄まっているだけであって、彼ら(スーツに身を包んだマス側の人間)は実は多種多様なのであるということを僕は気がついたのだ。

 

 

世の中には、スーツを着る以外の生き方だってある。

畑を耕して何かを作ったり、金属を加工したり、紙に何かを印刷したり、人を笑わせる職業だってある。もちろん絵を描く職業だってある。

多様性がオルタナティブになっていくこの時代、好きなことばかりやっていたら社会そのものが成り立たなくなるという意見があるが、もう日本も十分発展したことだし、僕はある程度現在の日本社会が成り立たなくなっても、それもしかたがないんじゃないかと思う。

 

全てが楽観的思考を持ってしてできたものばかりではない。

需要があり、「楽しさ」や「やりがい」なんていう言葉とは別のところから生まれたものだってこの社会にはある。というか現代社会においてはそっちの方がメジャーだ。

だからこそ「人生を楽しんで生きたい」というヤツらは時々白い目で見られる。

まあ、そういう心理もわからないことはないのだけれど。

誰かに膝をついて「スーツを着てくれ!」なんて頼まれた覚えもない。

自分の心の声に耳を傾け、やりたいことをやる人生があってもいい。

それは楽しそうに思えて、案外タフな生き方ではあるのだけれど僕はこっちの方が性に合っている。

 

 

 

普段だったらこういうことはあまりメモしない。

「ああ、そんなことがあるんだなあ」くらいにぼんやりと思い、そして忘れていく。

せっかく頭が回転しているのだから、そういうこともメモしてもいいんじゃないかと思ったのだ。

 

 

 

三越前駅で僕は地下鉄を降り、雑貨の詰まった重たいバックパックを引きずって地上に出た。

昔見た地震の怖さを伝える映画のワンシーンみたいだった。

すぐさまポケットからiPhoneをとりだし、三井住友ホールの場所を確認した。集合時間まであと一時間半もありやがる。急いだって何もいいことはないのだ。

スターバックスに入ってドリップコーヒーのトールサイズを注文すると、僕は外のテーブルについて電車の中で思い浮かんだ思考を書き留めることにした。

iPhoneのフリッカーでもなく、iPadのタッチ式キーボードでもなく、こうしてスムーズに記述できるのはやはりアナログのキーボードなのだ。パソコン持ってきてよかったなと思う。スタバでドヤ顔しているわけじゃない。僕は今こうして頭に浮かんだ思考を文字に起こしているだけだ。

4月下旬の都会の空気はTシャツでいるには少しばかりこころもとない気温だ。たぶん、シャツかなんかを羽織るくらいがちょうどいいんだろう。

 

日本橋のスターバックスなのに机が少し傾いていたのはちょっとおかしかった。

 

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