「砂漠を突っ切って」

▷11月17日/チリ、アントファガスタ〜バヒア・イングレシア

 

 

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雑貨も片付けた僕はいよいよこの町を出ることにした。

三日間ここでバスキングをしたわけだけれど、その前のカラマの町からの稼ぎは合計で200ドル分だった。

もちろんここから宿代やら食費、雑費が引かれるわけだけれど、それでもこの金額は自分でも驚いた。これならチリの旅は金がかからないんじゃないか⁇と思ったくらいだ。

宿のおばちゃんたちにお礼を言ってチェックアウトした。

 

 

 

 

チリのハイウェイはシンプルなので、町のはじっこにさえ行けばヒッチハイクができる。目印になりそうな場所の名前をバスの運転手に告げて僕はハイウェイへと向かった。ちなみにバス代は480ペソ(¥84)だ。物価が高いとは言え、ローカルバスは安いみたいだ。

町のはずれに出ると僕は歩いてハイウェイの入り口へと向かった。ハイウェイと言っても片側二車線ある綺麗な道路だ。アメリカの時と違って進入禁止の看板みたいなものは立っていなかった。

それにハイウェイの路肩には十分なスペースがあった。僕はハイウェイの中へと入り、適当な場所で荷物を降ろした。

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チリで二回目のヒッチハイク。

先日の30分未満で車を捕まえられたのはマグレか、それとも本当にチリがヒッチハイカーに寛容だったのか…。

 

時刻は10時。交通量は少ない。気楽に行こう。ダンボールに400km離れた”Cipiapo”と書いた。

さすがにハイウェイということもあり、向こうから走ってくる車は速度を出していた。

アントファガスタは経済的に豊かな町ということもあり、やって来る車は日本車が多いような気がした。もしくは大型トラックやなんの仕事かは分からないが業務用の車が半数だ。

車がスピードを出しているせいもあり、運転席からのレスポンスはつかみにくい。これは車が止まってくれるのに一時間以上はかかるかもな。

 

そう思った矢先に車が止まった。今回も30分ほどしかかかっていなかった。僕は車に駆け寄り行き先を確認すると、荷台にバックパックを放り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

運転手のホルヘさんは陽気なおじさんだった。NISSANの四人乗りの車を運転していた。後ろは荷物が置けるようになっている(あぁいう車種ってなんていうの?)

僕は拙いスペイン語を組み合わせて会話を弾ませた。時には言いたいことを伝わらせるのに骨を折ったが、ホルヘさんは想像力の豊かな人だったので、概ねいい空気を作ることができた。

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アントファガスタは銅山で潤っている町だ。町の外に出ても相変わらず景色は乾燥してサバサバしていた。

一時間ほど走ると車はハイウェイを外れて別の道へと入っていった。ホルヘさんは「近くの町ならアメリカ人なんかの観光客がいるから、ギターで稼げるかもよ?」なんて言う。

僕はマップアプリで近くに町があるか探したが、どこにもそれらしい町を見つけることはできなかった。辺りはカラカラの大地と山、そして一本しかないハイウェイが続いているだけだった。
そこから道を外れ、細い道へと車は入っていった。水をどこからか運んでこなければ生きていけないような場所に、プレハブが10棟ほど建てられていた。

ホルヘさんは「ここだよ」と言って、敷地内に入り、二度クラクションを鳴らし、誰もいないことを確認するとその場所を後にした。

なんだ。さっきのは冗談だったのか。たぶん仕事の用事で来たんだろう。いや、正直言うとここで降ろされるんじゃないかとヒヤヒヤしたのだ。

 

 

 

 

車は海沿いのハイウェイ一号線を走ってコピアポを目指すようになった。

どこまでも続く青い太平洋を見ると、僕はいつも日本に思いを馳せる。

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アメリカ横断を終え、オレゴン州のポートランドをヒッチハイクで抜け出した時、初めて太平洋が見えた。

そこから何度か海沿いの道を走るとことがあった。そして毎回『この海を渡れば日本があるのだ』そう思った。

 

 

 

ハイウェイを走っていると時折道脇に墓のようなものが見えた。人々が祈りを捧げるにしてはあまりに辺鄙なところにある。きっと交通事故で命を落とした人を弔うために建てられたものだろう。そのそれぞれに十字架が立っているが、添え色豊かでどこか小さな美術品のようにも思えた。

 

 

海沿いにはちっぽけな家々も建てられていた。津波がきたら一発でおじゃんになってしまいそうな簡素な家だ。人の気配はない。ホルヘさんに訊いたところによると人は住んでいないと言うのだ。抜け殻のような小さな町だった。

 

 

何度か眠くなる時もあった。そんな時は車の窓を開けて外の空気を吸い込んだ。会話が続かなくなると、カーラジオの音に耳を傾けた。たまにホルヘさんが一言二言会話を投げかけてくるが、半分も理解できない。

スペイン語は本当にすごいと思う。こんなにも中南米で使えるのであれば、僕は大学でスペイン語を履修しただろう。

 

 

 

 

 

 

途中で寂れた港町に立ち寄った。少し昔に後ろの山から土砂崩れが起こったそうで、建物の何軒かは窓ガラスが割れ、中には少し土が残ってた。未だに行方が分からない人もいるそうだ。

そんな町にある海の見えるレストランで僕たちは遅めの昼食を取ることにした。
僕は節食をしているので、コーヒーさえ飲めればよかったが、ホルヘさんは僕に朝食をごちそうしてくれた。

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最初に「お通し」のようなものが出てきた。パンにガーリックとチリのソース2種。オリーブの実、ビネガーで漬けた野菜の切れ端。海の見えるシチュエーションがどこかリッチな感じを演出していた。

次に注文した料理が出された。こういう時に僕は野菜を頼むのだが、うまく伝わらず、出てきたのはこの港町で取れた白身魚の魚のフライとパエリアだった。あっさりした味の白身魚はとてもおいしかったが、例のごとく野菜は限りなく少なかった。トマトの切れ端が三つほどあるくらいだ。

「野菜が食べたいですね」と言ったのにも関わらず、ホルヘさんはサラダと魚のフライを食べている。もしかして受けて取る食事が逆だったのかと、後で僕は尋ねてみたが、ホルヘさんは「さっきのでよかったけど、なにか?」と返した。

 

 

店を出る前に僕は眠気覚ましにガムを買っておこうと、ふたつ手に取った。

僕がガムの値段を訊くと、店のおばちゃんはニコニコして「もっていきなさい」と言う。僕はお礼を言って、ふたつガムをもらい、ひとつをホルヘさんに渡した。

そうして僕たちはその港町を後にした。
太陽に煌めく太平洋を横目にハイウェイ一号線をひたすら走った。

 

 

 

コピアポの手前でホルヘさんから提案があった。このまま一緒に「バヒア・イングレシア」まで行くのなら、明日続けて途中まで車に乗せてあげるよ、ということだったので、僕はありがたくその申し出を受けることにした。

 

 

バヒア・イングレシアはとても小さなリゾート地だった。ビーチ沿いに何軒かレストランがあり、その周りにホテルがあるだけだ。

ホルヘさんは今夜はホテルにチェックインするらしい。僕はというと、

 

 

キャンプだ。

 

 

明日の9時にホテルの前で待ち合わせすることを決めて僕たちは別れた。「シャワー浴びてがなくていいのかい?」と最後に訊いてくれたが、妙に気を使って断ってしまったことが悔やまれる…。このあと三日間シャワーが浴びられないなんて思わなかった。

 

 

 

 

 

ホルヘさんと別れたあと、僕はビーチ沿いをぶらぶらと歩いてみることにした。特にこれと言って特別なものがあるわけじゃない。

ベンチに座った地元のおばさんがギターのリクエストをしてきたくらいだ。三曲で750ペソいただいた。

残った時間はカフェで作業をすることにした。一杯1500ペソのアメリカーノを注文し、そこで閉店まで作業していた。

二杯目のアメリカーノを注文し、コンセントに近い席でFacebookに近況のアップをしているときに

マサトさんから連絡があった。

 

 

「一緒にパタゴニアに行こう」

と言うのだ。

 

 

 

この旅の中で、南米旅が終わりにさしかかっているこの中で、僕はパタゴニアには行けないと思っていた。ヒッチハイクとバスキングで節約できたとしても、フライトの日程も決まってしまってたからだ。「また次の機会に」と同じみの言い訳をして諦めていた。

 

 

これはチャンスだ。ツイている。

僕はそう思った。

 

 

いつ行けるか分からない、それなら親に金を借りてでも行くべきだ。

マサトさんとはパタゴニアにある町で待ち合わせをすることにして、そこまでのルートを教えてもらった。

 

 

 

 

「マサトさん、あなたは僕の人生を狂わせましたね」

冗談めかして僕はそう言った。

 

 

「人生狂っている方がちょうどいいよ♪」

 

 

 

アタカマ・マラソンを走り抜けたマサトさんらしい返し方だよ。まったく♪

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