「遊びの質が変わった…のか?」
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そう思うようになったのは
世界一周の旅を終え、しばらく経ってからのことだと思う。
約三年にも及ぶ旅を終え、日本へ戻ってきて僕が思ったことは
「よし!これで思う存分漫画が描けるぞ!」
ということ。
だって、それまではカフェのテーブルとかでシコシコ描いていたんですもの。
もう、漫画描きたいフラストレーション溜まりまくってたよね。
そして自分のやりたいことに情熱を注げば注ぐほど、
かつての遊びからは以前のような楽しさを感じなくなっていった。
「旅する漫画家」を名乗っている以上、僕は漫画を描かなければ自分の存在理由を失ってしまうし、
それは義務感ではなく、自分が心の底からやりたいと思っている情熱のようなものだ。
はたから見たら「お前トチ狂っているな」と思われていたかもしれないけれど、
漫画を描くことは僕にとって、この世界を楽しく生き抜くためのひとつの手段(仮)だったのだ。
どうして(仮)がついているかというと、
まだ漫画を描くことによってお金を稼げていないから。
確かに漫画描くこと、ひいては自分がやりたいことをやって生きていくことは決して楽ではない。
最初は収入がないから、バイトもしなければならない。
周囲の人間からしてみれば
「お前、まだそんなことやってんの?現実見ろよ。ちゃんと社会に出て働け」
と思っていることだろう。
現にこのブログを書いていてそういうコメントももらうこともあった。
そんな人間はこっちの価値観なんてわかりっこないのでスルーだ。
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そして一番のネックは僕は一種の社会不適合者だ。
自分のやりたくないことをやっていると
頭の片隅で「ああ、おれなにやっているんだろう?」という気持ちにとらわれてしまう。
本当にやりたいことはこんなことじゃないのに。と。
ひょっとして今自分は人生の無駄遣いをしているんじゃないか?とさえ思ってしまうのだ。
こういうことを考えてしまう人間は真っ先にメンタルをやられてしまう。
僕の代わりなんていくらでもいる。
それなら、僕は自分のやるべきことをやらなければいけないんじゃないかって。
そして、その「やるべきこと」というのは
漫画を描くことだ。
漫画を描くことは、しんどいことも含めて楽しいと感じている。
絵を描くのには時間がかかるし、ずっと同じ姿勢でいれば体だって疲れてくる。
それでも絵・漫画の面白いところは、
描けば描くほどなんらかの上達があり、日々学びの連続があるからだ。
現在では漫画をiPad Proで描く人もいるくらいで、「これが漫画の描き方だ!」なんていうルールはどこにもない。
早い話、僕は漫画を描きながら(自分のしたいことをしながら)遊んでいるのだ。
いい歳した大人が真剣になって遊ぶ有機的な遊びだ。
今までの遊びとはなんだったの…?
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反対に今まで遊びと捉えていたことに対して、
僕は今までのような楽しさを見出すことができなくなっていた。
そして、それらに対しても距離をおくようになっていった。
時々気分転換に友達とどこかに遊びに行ったり、映画を見たりするのだけれど、
そこには「自分の勉強・経験(ネタ)になるか?」という基準をクリアしないことには重い腰が上がらない。
文字通り僕の体は机にへっぱりついているからだ。
「遊び」に対する質や感度が変わってきたのを意識する前は
自分が冷めた人間になってしまったのだなとショックを受けた時もある。
世間一般的な遊びをしても彼らほど楽しさを見出せないからだ。
楽しそうなそぶりを見せることはできるが、どこか虚無的でどこへ繋がることもなく、自己完結しているような気がしてならない。
「これをすることによって、おれは何かを生産したのだろうか?」と自己嫌悪を感じる時さえある。
失礼な話になってしまうが、そんな時僕はいつも「あぁ、こんなことなら家で漫画を描いていたかった」と思ってしまうのだ。
大人になると遊びの質が変わる
きっと、世の多くの人はオン・オフがはっきりしている人がほとんどなのだろう。
一生懸命仕事に時間を使って、それ以外のレジャーの時間を遊びと見なすのだろう。
けれど、遊びとはそれだけじゃない。
僕みたいな種類の「遊び方」をする人間もいて、
自分のやりたいことにエネルギーと情熱を注ぐ人間もいる。
日本に戻ってきてそういうふうな生き方をここ2年くらいしてきたけれど、
残念なことに意外と理解を示されないことの方が多いのが現実だ。
中には彼らの価値観に自分を引き込んで評価してくる人間がいる。
「おい。お前。金にもならないことをあくせくやっているんだよ?遊んだらどうだ?」と。
やっている本人は楽しいのに、それが理解されず、軽んじられることだって多々ある。
そういうお節介やら小言は言わなくていいよ。きっと上位に立ちたいんだろう。犬のマウンティングと一緒だ。
また、そこには収入の問題も関わってくるのだけれど、今回は「遊びの質」の話だから、それはまた今度にしよう。
時代は変わりつつある。
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この新しい「遊び」の価値観を後押ししてくれているのは、
ユチューバーやプロゲーマー、ブロガーなど、自分の好きなことをして生きている人たちの登場だろう。
僕たちは今、時代の節目にいるのだ。
節目というか、今までの価値観がどんどん変わってきている、そんな大変革の時だ。
彼らがやりたいことをやって生きている理由のひとつにネットがある。
スマートフォンの出現以前と以後だと、圧倒的にスマホを持った人の方がネットにつないでいる時間は長くなったろうし、
みんな暇さえあればスマホを開いて、なんらかのつながりを求め、お互いを評価し合っている。
「いいね」なんてまさにそれだ。
今まで以上に「信頼」という目には見えない価値が重要視されるようになり、
ネットと現実のボーダーラインはますます希薄になってくることだろう。
ちょっと前まではVRのゴーグルをつけて「きゃっきゃ」している人間を白い目で見ていたかもしれないが(僕は見ていた)、
それが日常的になる時代がもうすぐそこまでやってきているのだ。
そんな中で「遊び」の種類もまた変化してきているのは当然のこと。
あとはそれをどうマネタイズするかが問題だ。
「それ、変じゃないよ?」
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様々な価値観が認められる今、
ちょっと前までは一般的には認められなかったことも、
今では「それもありだよね!」と認められるようになってきている。
特に僕は、何かに突き動かされて物を作っている人間、
そして僕のように今までの遊びに対して楽しさを見出せなくなってしまった人に言いたい。
「あなたの遊びの質は変わったのだ」と。
いいじゃないか。
もうかつての遊びをつまらなく感じてしまったって。
ガキの頃にやっていたゲームを今もやるかい?僕は飽きちまったよ。あれだけ熱中してたのにね。
遊びの質が変われば、当然付き合ってくる人間も変わる。
大切なのは内に篭らずに、それをどう外に向けて発信していくかだ。
これは僕の反省点でもある。
描くことに精一杯で自分の宣伝がうまくできず、新陳代謝が滞ってしまったことだ。
ブログを毎日書いたり、漫画を描いてそれをアップすることは大変だけれど、
流れを作らないといけない。
同じような志を持った人間は、物理的にたまたま自分の近くにいないだけで、
探せばいくらでも見つけることができるはずだ。
インスタグラムでベラボーに上手いファンアートを描く韓国人の男の子が何千人もの人から「いいね」をもらうことだってできる。
同じような趣向を持った人たちが集う場所に足を運べば、仲間を見つけることができるだろう。
大事なのはそこへ足を踏み出す勇気だ。
最初は収穫がないかもしれない。
諦めずに、また次へトライ。
少年漫画みたいに仲間を増やしていこう。
自分のやりたいことをやって生きる道を選ぶと、
漫画で言っていた綺麗事が、実はこの世の心理なんじゃないかって思えてくるから不思議だ。
そんなわけで4月27・28・30日は
日本橋ホールで開かれる「世界一周学校文化祭」にお邪魔します!
面白いヤツに会えればいいんだけど。
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