「タンザニアぶりだね」
そう僕は言った。
「ってことは、3年以上経ってますね」
「そうだね。2015年の2月だか3月にダルエスサラームで会ったっきりだからね」
大船駅で待ち合わせたウチダくんは、片手には雑誌のたくさん入った紙袋を下げて登場した。
雑誌を大量に持ち運ぶ人って、住所不定無職臭がするのは僕だけだろうか?
「何?その雑誌?」と僕が尋ねると、ウチダくんは「実家に帰ってたんで」と言い訳をした。
そのとき僕は一年近く旅を続けており、カトマンズの路上でボロボロのマーチンバックパッカーを鳴らしてシャウトしていた。
誰もが白い目で僕の前を通り過ぎる中、女の子同伴で大学生のチャラさとともに声をかけてきてくれたのがウチダくんだったのだ。
その場の流れで、旅人によくある名刺交換的なfacebookの友達申請を行い、僕たちの邂逅はものの数分で終わった。
だが、カトマンズに滞在していれば顔を合わせることとなる。
「絆」という日本料理(というか定食)を出す料理屋で、僕たちは丼ものを食べながら話に花を咲かせたのだ。
髪を金髪に染めた彼はどこかの大学の教育学部生であった。
「へえ。じゃあ教師になるんだ」というと、彼は「ゆくゆくは海外の学校で教えてみたいですね」と夢を語った。
そうして僕らはまた、お互いの旅路に戻り、次にウチダくんに会ったのは
タンザニアのダルエスサラームでのこと。
ウチダくんの様相はさらに旅人感が増していた。
髪は伸びっぱなしだったし、服装は小汚く、なにより持ち物をほとんどもっていなかった。
それもそのはずで、彼は僕と再会を果たす数日前にダルエスサラームでタクシー強盗に遭ったばかりだったのだ。
現金もほとんど失った彼は、やけに前向きだった。
「あとちょっとで日本に帰るんで。それに保険に入ってますし♪」
朝方、ダルエスサラームの宿の近くで、10円にも満たない甘くて濃いコーヒーを飲みながら話す時間はとても贅沢な時間のように思えた。
それから三年ちかくが経ったのだ。
「今何してるの?」
売れてもいない漫画家が口にするのははばかられるセリフだが、僕は今ウチダくんが何をしているのか興味があった。
「今、テレビ関連の仕事をしています」
そういうウチダくん。
僕たちは駅を出ると、
賑やかな商店街をふらふらと歩きながら、雑居ビルにある中華料理屋でメシを食べることにした。
ひとまず生ビールをふたつ注文し、18個入りの餃子と青椒肉絲を頼んだ。
ウチダくんは腹をすかしていたため、担々麺を注文した。
店は中国人の店員が働いており、ウェイターの名札には「劉」などと書かれている。
オーダーのとり方がぶっきらぼうで、それがまた微笑ましくもある。
ひとまず生ビールが運ばれてきて僕たちはグラスを鳴らした。
今回どうしてウチダくんと三年ぶりに飲むことになったのかというと、一週間ほど前に彼から連絡があったからだ。
最近、僕が「インドに行く!」とfacebookで連投しているせいか、彼の旅情も刺激されたのかもしれない。
さっきも街を歩いている時に「この前もインドに行くって28歳の映画監督志望の人に会ったんですよ」と彼は話してくれた。
「インドに行くヤツらを訪ねて回ってるってこと?インタビューかぁ。おれは何を答えたらいい?」と僕は冗談めかして訪ねると、
「いや、別にそーいうんじゃないっす」っと、さらっと流された。
旅人が日本で再会することに理由なんていらないのかもしれない。
だが、僕にとっては誰かと会うことは大切なことでもある。
僕は日本に戻ってきてから部屋に篭って作業をすることが多くなったので、人と会う機会はめっきり少なくなった。
だからこそ、意識的に人に会うことが僕とっては大事なのだ。
特に社会の何かの組織に属している人たちは面白いことをたくさん知っている。
映画や小説で自分が経験したことのないことを擬似的に追体験できるように、そう言った人たちからの話は、彼らの人生の一部を僕はほんの少しだけ味わうことができる。
ウチダくんからは、ざっくばらんに様々なことを聞くことができたが、一番印象的だったのは、
不規則な生活な上に、なかなかタフな仕事内容だということだった。
「文字起こしって大体10分で2時間かかるんですけど、
2時間のインタビューだと、だいたいその半分の1時間が使われるとして、
12時間ですよ?
最近目ぇ悪くなったな・・・」
とこぼすウチダくん。
そのセリフからテレビ業界の大変さを垣間見た気がした。
お互い酒は飲めないらしく、二杯も飲むと十分酔っ払ってきた。
時刻は待ち合わせをしてから、1時間半しか経っていなかった。
僕たちは「ずっとここにいるのもなんだし」ということで、
一旦店を切り上げて、二軒目にはしごすることにした。
外に出ると凍てつくような風が吹き荒れており、僕たちはの酔いは一瞬で冷めてしまった。
路肩には溶けきることのなかった雪がわずかばかり残っている。
ウチダくんはそれを見て「こっちって、もうほとんど雪が残ってないんですね」と言った。
先ほどまでいた彼の実家のある埼玉では昨日はマイナス10度まで下がったのだとか。
そんなに温度差があると日本じゃないみたいだと思うのは僕だけだろうか。
それと同時に、
僕はあいかわらず日本のことを知らない。
日本という国にいながら、どこに何があるのかを体感として全くつかんでいない。
北海道にだって、沖縄にだって僕は行ったことがないのだ。
その事実は、僕をまた新たしい旅に駆り立てるような気がする。
二軒目は駅からすぐ出たところにある日本酒を多く揃える居酒屋だった。
階段を登り、中に入ると、そこはちょっとおしゃれな空間だ。
奥の席では僕と同い年くらいか、それよりちょっと年上くらいの人たちが十人ほどで楽しそうに酒を飲んでいた。
店員を呼ぶために席にひとつ鉄製のベルがついており、用のある人間はそれをカランコロンと鳴らすのだ。
その音を初めて耳にした時は、「誰だ?店の中にパーティーグッズを持ち込んだ奴は?」と思ったが、ちゃんと自分たちの座った席にもベルが置いてあるのがわかると、それがこの店の趣向のひとつなのだなと理解した。
僕たちは席に着くと、お互いそれぞれ違う種類の日本酒を注文し、
お通しの胡麻豆腐に舌鼓を打ちながら、旅の話に花を咲かせた。
さっきの中華料理屋が仕事の話だとすれば、
今いる居酒屋が「旅の話をする時間」のようだった。
ウチダくんは世界情勢や難民の話なんかになると、さっきよりも饒舌になった。
心なしか顔も生き生きしている。
そういう姿を見ていると、あぁ、コイツは本当に旅が好きなんだな、と僕は思うのだ。
何かやりたいことはあるか?と僕が尋ねると、ウチダくんは
「今現在ヨーロッパにいる難民たちを追って見たいですね」
と答えた。
茶化すように
「深追いしすぎてやばいことにならないようにね」
と言うと、
「彼女からも「命だけは大事にしてね」って言われます」
と言った。
そうだ。
どんなに遠くへいこうとも、
自分の命を落としてはいけない。
旅をして、そして、生き続けるからこそ、僕たちは旅で得た経験を見に染み込ませ、その後の人生の糧としていくことができるのだ。
あの時飲んだチャイの味も、朝耳にしたアザーンの放送も、僕の血や骨となっている。
「そうだ。おれ、この前インド行きのチケット買ったんだよ」
「どれくらいしました?」
「3万8千とか?」
「へぇ。安いっすね」
「うん。往復でね」
「え??!!
往復???
いやいや、それ安くないですよ!
だって、成田からマレーシアかバンコクまで安い時で1万ちょいでいけますよ?
それでコルカタまで同じくらいでいけますから。
インドなんて大体2万5千くらいで行けますって!
安い時でバンコクーコルカタまでで3千円とかの時もありますって!」
「え…???」
そう言って、ウチダくんは去年取ったというEチケットのデータを僕に見せてくれた。
そこに書かれた金額は中国元で書かれていたが、レートを計算すると
片道一万円ちょっとのチケットだった。
僕がウチダくんと学んだことは以下の通りだ。
1)チケットを買うなら年末のセールの時に
2)スカイスキャナーでもルートは別個に調べること
3)荷物は7kg以下に抑える
僕はその場に泣き崩れた。
でも、いいよ。
時間のロスなくインドに行きたかったのだから。
ウチダくんの方法だと、タイやマレーシアにも滞在することになるから。
ぐすん..。
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楽しく読ませていただきました。私の甥っ子も世界中放浪の旅して今は中南米のとある国で所帯もっています。本人からは直接あまり話を聞いておりませんがなんか同じ匂いがするような。私の世代ではあまり考えられない話。日本中放浪して安住の地を北海道に見つけた友人がおります。でもアルゼンチンやオーストラリアにもう40年以上住んでいる友人もいます。私の同級生飛んでいる人がおおいいかも。私もかなり変わった部類なのかもしれませんが。やってみたいと思ったことは絶対やる。あとで後悔したくないから。なんちゃって。
>がんちゃんさん
今回のブログは、いつも書かない切り口で、
反論する形で書いてみたのですが、
知り合いの方からの反応の方が大きかったです。
もっとマイルドに書けばよかったかな?
実際、人間の生き方なんてひとくくりにはできないですよね。
固定観念にとらわれずに動けるかだと思います。
自由に生きているように見える人も
リスクは負っていますしね。